筋張った骨格になめしのような肌が張り付き、顎には短い無精髭がある。その毛先は女の指にささるようで、襟足から撫で上げた彼女が言った。ーー私にはない感触みたい     そのまま頬に手をやると、見かけによらず若い青年の弾力がある。

   細い眼鏡をかけていた。彼は物理学者だった。

 

   しがない編集者だった彼女は、彼のことが好きだった。彼の部屋から見る青白い電波塔と、缶ビールの中に揺れる夜があれば、彼女は満足なのだった。あとは時折深夜を散歩し、二人で美しい建築を見る。お金なんかなくたって、変えがたい時間がそこにあった。

 

   けれど彼女は部屋を出てきた。水曜日の朝8時。溺れるように息をして、意味もなくはらはら泣きながら互いの身体をまさぐってから、数時間しかたっていない。けれど昨日と今日の隙間に、二人の心は戻れなくなった。

   

    冷たいドアノブに手をかけて、彼女は最後に振り返った。雑然と並ぶ本の山と、使いかけの石鹸、シンクの白黴。さまざまなものが一度に視覚へ入ってきたが、彼女の感覚が拾ったのは、バスルームから漏れる電球の明かりと、シャワーの水音だけだった。今、彼がそこにいる気配を、一生覚えている予感がした。

 

  彼女はふいに部屋をでた。エントランスに人影はなく後ろ手にガチャリとドアが閉まると、しんと無機質に明るかった。そのドアノブから右手が落ちた。落ちた途端、瞼に残るバスルームの灯りとシャワーの音がすっと遠のき、同時に鼓膜で響き出した。わたし最後の彼の気配が、思い出に姿を変えたのだ。

   この先もそっと消えないで、不規則な水音は鳴り続ける。浴室の扉から漏れた光は、あわいオレンジ色だった。

 

   

  秋葉原駅が見えてくる。ただ日常が始まろうとしている。満員列車に揺られながら、  ーー昨日はお気に入りのワンピースを着ていてよかったな、     と思った。あいすることがさみしさに負けて、ひとり部屋をでてしまう朝、思うことは変哲も無い。彼の記憶にのこる最後のわたしが、すてきなワンピース姿でよかった、         ただそんなことを考えながら、列車は末広町を過ぎる。